中国で起きた日本人学校男児襲撃事件は衝撃でしたが、中国政府は国内で起きていることについて公式の場で正確な発表をしておらず、私たちは実像を知る機会がなかなかありません。政府の考え方、経済状況、そして民衆の実情など、長年、中国の調査や研究をされている興梠一郎氏(神田外語大学教授)にお話を伺いました。
最近、知り合いからこんな相談を受けました。親戚が中国駐在をすると言っているが、なんとかして止めたいというのです。彼が不安になる理由の一つには、今年9月に中国の深圳で日本人学校に通う男児が刺されて亡くなった事件があります。しかし中国側は犯人の供述を公表せず、「事件は偶発的で、個別の事案」としか説明していません。6月には蘇州で日本人学校のスクールバスに刃物を持った男が乗り込もうとし、日本人親子が刃物で切りつけられました。親子は命に別状はありませんでしたが、案内係の中国人女性が児童らを守ろうとして男に刺され亡くなりました。4月には同じ蘇州で日本人駐在員が襲われて首に軽傷を受けたものの、抵抗したため無事でした。外国人も多くいる大都会で事件が立て続けに発生しており、いつどこで誰に襲われるかわからないような状況です。
日本側が説明を求めても犯人の動機などについて明解な返答はありません。このような状況ですと対策の取りようもなく、9月18日は「柳条湖事件」が起きた日、つまり満州事変の日でしたが、日本人を狙ったものだったのか、それとも外に理由があったのか、動機がさっぱりわからないので、不安が募るばかりです。
中国ではこれまでも反日事件はありました。日本が尖閣諸島を国有化した2012年9月、日系企業の自動車販売店が放火されたほか、日系スーパーが襲撃されました。日本車に乗っていた中国人も襲われました。今回、反日感情が高まったきっかけは、昨年の福島第一原子力発電所の処理水放出だったと言えます。中国政府はこれを「核汚染水」と呼び、国際機関IAEAが処理水の安全性を報告したにもかかわらず、その報告書が「限定的で一方的」だと主張しています。自国の原子力発電所から放出した排水に含まれるトリチウムの量については全く触れず、「核汚染水」だと批判しました。去年の夏以降、日本に対して処理水に抗議する電話が大量にかかってきたと報道されました。当時、蘇州の日本人学校には卵が投げ込まれ、スパイ学校だというデマ情報が流れていました。中国政府への批判はネット上で削除していますが、このデマ情報は削除されていませんでした。
日本人は、こうした事情を知っておく必要があり、もしどうしても渡航するのであればリスクを最小限に抑えるために自衛措置を取らなければなりません。外務省は昨年夏に、以下の点を注意喚起しています。
(1)外出する際には、不必要に日本語を大きな声で話さないなど、慎重な言動を心がける。
(2)日本の大使館や総領事館、日本人学校を訪問する必要がある場合は、周囲の様子に細心の注意を払う。
(3)万が一抗議活動などの場に遭遇した場合には決して近づかないようにし、その様子をスマートフォンなどで撮影するなどの行為も行わない。
処理水問題をきっかけに出されたこの注意喚起文言からも、今回の事件との関連性がよくわかります。
コロナのロックダウンは、中国社会に大きな影響をもたらしました。中国人の富裕層は外国に逃げ出しています。富裕層でない人は、命懸けでアメリカに渡ります。「走線」と呼ばれ、トルコ経由で南米に渡り、命懸けでジャングルを抜けてメキシコの国境からアメリカに密入国し、話題になりました。中国では、都市部だけでも若い層は5人に1人が失業しており、超エリートの大卒でも就職難です。なぜなら政府が不動産企業やIT企業の引き締めをしたせいでホワイトカラーの仕事がなくなってきているからです。また外資系のうちさまざまな情報を扱っているコンサル会社などは、反スパイ法を恐れて撤退しています。
中国では、不況で社会不安が高まり、23年7月には幼稚園が襲われ、子供3人を含む6人が死亡、また今年9月には上海のスーパーで3人が死亡し、15人が負傷するなど殺傷事件が起きており、世の中が殺伐としているという声が聞かれます。暮らしている日本人は、一連の事件をきっかけにますます警戒心を強めており、かなりのストレスになっているのではないかと思います。
中国に関してもう一つ注目すべきは台湾問題です。軍事演習のニュースはよく流れていますが、中国がやろうとしているのは、まず封鎖なのです。中国が何度も行っている軍事演習の目的は兵糧攻めです。台湾を長期間包囲すると備蓄している天然ガスでエネルギーも枯渇します。海に囲まれ天然の障壁があっても、中国による封鎖で外からものが入らず、外にも出られなければ経済活動はストップし食料不足になります。外部から軍事支援をするにしても封鎖を突破しなければならず、戦争になる覚悟も必要になります。さらには、サイバー攻撃で発電所を狙い電力をストップすることもあり得ます。2022年8月、アメリカのペロシ下院議長が台湾訪問時、駅の電光掲示板にペロシ氏を批判するメッセージが書き込まれました。
このように周辺を見ると、日本を取り巻く安全保障の環境がこれまでと異なる状況になっていると感じています。時代は新しいフェーズに入ったのかもしれません。神田外語大学教授
1959年、大分県生まれ。九州大学経済学部卒業。三菱商事中国チームを経て、カリフォルニア大学バークレー校大学院修士課程修了、東京外国語大学大学院修士課程修了。外務省専門調査員(香港総領事館)、外務省国際情報局分析第2課専門分析員、参議院第1特別調査室客員調査員を歴任。主な著書に『一国二制度下の香港』(論創社)、『中国激流―13億のゆくえ』『現代中国―グローバル化のなかで』(ともに岩波新書)、『中国―巨大国家の底流』(文藝春秋)、『中国 目覚めた民衆―習近平体制と日中関係のゆくえ』(NHK出版新書)、『毛沢東 革命と独裁の原点』(中央公論新社)。
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