昨今、テレビのニュースなどを見て思うことがある。子どもたちがマイクを向けられても慌てることなく筋道を立ててきちんと話すのである。私たちの子ども時代とは雲泥の差である。
先日、中学校に出かけた。熟議というプログラムに地域の大人として参加した。グループは大人3名、3年生が3名の編成であった。
テーマは「大人は中学生に、中学生は大人に何を期待するのか」であった。グループの進行、記録、発表は中学生が担った。このテーマで話し合い、最後にまとめて各グループが発表した。大人からは「今の中学生が考えていることや、地域が将来どうなってほしいと思っているのかを知ることができた」中学生からは「地域の人と交流し、コミュニケーションを深めたい。小学生の頃から知っている地域の方がいて、話しやすかった」などと報告があった。短い時間でのやり取りではあったが、世代の異なる人に自分の意見を述べ、相手の話に耳を傾け、ともに考える学習は、双方にとって、とても有意義な時間になった。
別な日、小学5年生の道徳の授業に参加した。グループに加わり、子どもたちの意見を聞いた。テーマは「いじめ」について、事の経過について説明の後、「いじめ」を知っていて「見て見ぬふりをするのは、いいか・悪いか」という点で話し合いをした。その後、黒板に「いい」「悪い」と板書されたところに自分の名前と選んだ理由を書き添えた付箋紙を貼った。「悪い」というところに多く貼られたが、どちらにも貼ることができないと、枠外に何枚か貼られた。私たちはともすると「いい」「悪い」と判断しがちではあるが、「どちらでもない」という選択もあると気づいた子どもたちがいたことに驚いた。話が深まった結果であろう。
学校教育の場でこうした学習が進んでいることが、子どもたちの大人顔負けの立派なコメントにつながっているのだろうと納得した。 自分の意見を述べ、相手の意見に耳を傾け共有し、自分が最終的に判断することができる人が増えれば、合意形成の場が成熟し、バランスのとれた社会が実現するのではないかと思う。子どもたちに大いに期待したい。
(2024年8月)